新宿マクガフィン

 新宿の映画館に会社の知人と三人でヱヴァ破を見に行った帰り。
 京急線あたりの高架下、占い師が何人もいるところの柱の根に「私の志集 三百円」と書いた板を持った女性が佇んでいた。あたりを歩く若者の雑踏やそこら中で流れている賑やかな音と比べて明らかに異様なたたずまいで、若いころの中島みゆきみたいな人だなと思って最初は通り過ぎた。通り過ぎたあたりであまりにも気になってきて、何度も振り向いてどうしたものかと思った。財布には五千円札が一枚である。三百円のものを五千円札で買われても鬱陶しいであろうと思いお金を崩しにコンビニに急いだ。新宿には明るくないので近場でコンビニなど見当たらず、500m以上も離れたam/pmで食いたくもないミンティアを買ってお釣りの中から三百円を掌に残し、もと来た道を早足で戻る。まだ10分も経っていないのに、まだあの女性はいるだろうかと気持ちが逸った。
 雨上がり特有の汗をかきながら戻ってみると、果たせるかな、女性はまだ「私の志集 三百円」と書かれた板を持って立っていた。四,五十代に見える男性と何か話している。……と思ったのは私の間違いで、どうも男性が一方的に話しかけているようだった。しばらく三百円を握ったまま二人の様子を見ていたら、男性が急に私のことを指差し「ほら、お客さん来てるよ」と言った。女性がこちらを振り向く。近くで見るとわりと綺麗な女性であり、はじめに通りかかった時に感じた複雑な雰囲気を読み取ることはできなかった。「ひとついただけますか」「はい。三百円です」少し低い声で女性が応える。私は女性に三百円を渡した。女性はどこに持っていたのか分厚い手帳を取り出し、その間に乱雑に挟まっていた紙束をひとつ摘み上げて私にくれた。渡された紙には手描きとおぼしき簡素なイラストと、中央に「その向う側」と小筆で書かれたようなタイトルが書かれていた。渡された小冊子をかばんに仕舞い、私はそのまま女性の顔も見ずに立ち去った。
 帰りの電車に揺られながら、私は大変興奮していた。高架下の暗がりで女と出会い、気まぐれに詩集を買って帰るなんて、梶井基次郎の小説みたいじゃないか。これはすごいと何度も思った。はてダに書いたら50ブクマはかたいと信じて頭の中で何度もブログを書いた。だが都庁前を過ぎ、東中野を越えたあたりで徐々にばかばかしくなって考えるのをやめた。下らないことだと思った。
 なんだか意気消沈してしまったところで家に帰り、かばんの中から詩集を取り出して読んでみた。内容をここに書くことはもちろんしないが、なかなか破滅的な内容で、これならば三百円の価値はあるのかもしれない。気になって調べてみたところどうも有名な人らしく、「私の志集」などで検索をするとたくさんの記事がhitした。興味のある人は調べてみるといいだろう。だがもっと興味のある人は新宿に行ってみたほうがいいかもしれない。あの女性の立ち姿は万が一演出だったとしても鬼気迫るものがあり、一見の価値はあると思う。
 今日はヱヴァを見に新宿に来たのに思わぬ収穫があって大変良い気分になった。